「四十九日に納骨しないといけないの?」「一周忌までにはお墓を建てないといけないの?」など、建墓や納骨の時期についてご質問頂くことがあります。結論から申しますと、建墓や納骨の時期に「いつまでにしないといけない」という決まりはありません。
昔は、亡くなればすぐに土葬されていました。古来「お土に還る」ことで自然界に還り、植えた種が芽吹くように、またこの世に新たな命として戻って来られると信じられていました。そのことを考えると、お墓を早く建て、早くお土に還してあげるのが良いとされています。
ただ、「もう少し私達の身近にいてほしいから」とお骨をしばらくお手元に置いてらっしゃる方もいらっしゃいます。気持ちが落ち着き、お土に還してあげることに前向きになられたその時が、その方にとっての最善の納骨の時期なのかもしれません。
また最近、来年がそうだからなんでしょうか、「うるう年にお墓を建てたらいけないと聞いたんだけど本当?」とご質問を頂くこともあります。これも結論から申し上げます。
お墓と閏年とは何の関係もありません
かと言って、人からそのように言われると気になるものですから、どうしてこういう迷信が出てきたのか、少し長くなりますがご説明申し上げます。
この話の出所は全国ところどころにあるようですが、関西では主に和歌山地方です。話は江戸時代にさかのぼり、和歌山はその当時、8代将軍吉宗公を輩出した紀州藩でした。吉宗公といえば、藩主として質素倹約により藩を立て直し、また将軍としても同様に質素倹約をもって幕政改革をしたというのは有名な話です。その吉宗公を代表するように、紀州藩は質素倹約が藩政の基本方針だったのです。
そして閏年に話を戻しますが、その時代は今の暦とは違い、太陰暦と太陽暦の間をとった太陰太陽暦(旧暦)でした。太陰暦は1年が約354日ですから、太陽暦の約365日と1年に11日ほど異なることになり、そのままいくと実際の季節とどんどんずれていってしまうため、太陰太陽暦では3年に一度「閏月」として1月増やすことでそのずれを調整していました。つまり3年に一度、1年が13か月の年があったのです。
すると、昔は現在のように月給ではなく、米本位の経済体制(=石高制)ですので、1年の収入は決まっています。豊かではないこの時代に1年の収入が変わらないのに1か月増えるというのは、家計のやりくりが大変なのは容易に想像できます。しかも和歌山地方は山地が多く田んぼに適した土地が少ない上に、昔から台風の通り道で不作の年も多かったようです。
以上のこともあり、質素倹約を旨とする紀州藩では、閏年(閏月)には、例えば仏壇や墓石のような、取り急ぎ生活するのに必要不可欠とは言えないものを買わないよう、藩士領民に指示がなされたそうです。そして現在になり、いつしかその理由の方は忘れ去られ、「閏年にはお墓を建てるな」という言葉だけが残ったようです。
しかも、昔は土葬で、「亡くなられたらすぐ埋葬→仮の木碑を建立→2~3年後に土が落ち着いてから墓石建立」という流れだったため、閏年であろうが埋葬はされてた訳なので、少なくとも埋葬・納骨と閏年とは無関係であることがわかります。
昔から「幽霊の正体見たり枯れ尾花」と言われますが、まさにその通りで、恐ろしく聞こえるものでも本を正せば大したことはありません。
迷信に惑わされず、ご自身が故人様のご供養のために最善とお考えの時期に墓石を建立する。そのための努力は惜しみませんので、何かご不安なことがございましたら、創業明治32年、経験豊富な我々成和にどうぞお任せ下さいませ。